特権

私は『頑張る』という言葉が好きなのだが、人によっては「頑張る」なんて、日本人の悪しき表現の一つだなどと、あしらうが如くに否定したりする。
そんな時、この人は若い頃や壮年の頃に、頑張るということに辛い思いをしたに違いないと考える。自分の頑張りが報われなかったことで、心が傷ついてしまったのかもしれないと気の毒に思うのである。

人は他の生き物とは全く違った一面を持つ。
自分の頑張りを誇れる生き物なのである。そんな生き物は地球上に人間以外は存在しない。
辛い時には自分を見つめ直してみる。そして、何かに対して頑張った自分を認めたとき、決して逃げなかった自分を認めたとき、軽い自信に包まれ始める自分が居ることに気付くはず。
それは誰かから与えられた自信ではない。偶さかに与えられた自信でもなく、仮に小さくとも価値のある自信である。ここに報われるとか報われないなどというレベルの心情はナンセンスだ。プロセスは大切ではないというのなら別だが。。。

もし、あなたがプロセスは大切だと言うのなら、『頑張る』ことに価値を見出だし、生き甲斐をさえ見出だせる。
それは人にだけ与えられた特権と言ってよいものなのだ。

『頑張る』ことが無意味だと感じる時は、誰にでもある。
結果の出ない頑張りを「意味のないもの」「時間の無駄だった」と、そう捉えざるを得ない時は長い人生には必ずある。そんなときこそ“頑張った自分”を振り返ってみることだ。そして今一度、自分自身を奮い立たせるのである。

頑張ることは決して自己満足などではない。

【Gスタジオ&合田洋ゴルフクリニック】

パッティングの達人を目指す練習法

家人が寝静まった誰もいない薄暗がりの廊下に、コツッ!~カラン!という音だけが響いている…銀色の杖の振り子のような動きによって放たれた球は、一定の速度で転がり、そして一間ほど先に穿たれた穴へと吸い込まれてゆく。
そこには、その銀色の杖を操作する人影があった。
人影は廊下の小窓から射し込む月の光に照らされているが、その表情を読み取ることを決して許してはくれない。銀色の杖を振り子のように操る“動作”に没頭している人影は、余人を遠ざけるが如く、操作そのものに集中し、精神の深みへと埋没しているからだ。
しかし、一球一球の転がりを追い続ける眼は、心臓を貫いた刃が鈍い光を放つように、ユラユラと揺れながら発光していた。それは恰も、その眼光のみが、あたりを照らす唯一の光であるかのように映っている。
また“動作”は、高さ百尋もあろうかという滝壺に落ちゆく一滴一滴を凝視し続ける修験者が、念の力を以てこそ何かを成し遂げられると信じ、己が精神を練り上げる様に似て、ただ黙然と繰り返されていた。それはまるで、操作する銀色の杖に自らの魂を移し、望みを叶える“魔杖”に変えるべき所業とも表現できるだろう。

まぁ、この域まで練習しなければ“極限の場面で入れられるパッティングの力”を手に入れることは出来ないと思ったほうがイイ。
パッティングの練習は上記の通り自宅でも出来るわけだが、具体的な練習方法を述べれば『パターマットの連続カップインを8回~100回ノルマとして達成する』となる。無論、連続カップインが必須条件。失敗すれば、もう一度最初から繰り返すということ。
8回連続は普通のレベル。20回連続は上級者を目指すレベル。100回連続が達人を目指すレベルだと心得よ。
まずは自分のノルマ(連続カップインの回数)を決める。そして、決めたノルマを出来る限り毎日達成すること。ノルマを終えるまではベッドに入ってはいけない。僅か2m強のパターマット練習が、恐ろしいほど己自身を鍛えてくれることに驚くだろう。
期間として、ざっと3年間。いわゆる“千日の修行”である。

「腰が痛くなった」などの“腰抜けクレーム”は一切受付ない。ゴルフの達人を目指す練習方法を紹介したに過ぎないからだ。
そもそも“根性なし”に達人への道を志す資格など無い。

【Gスタジオ&合田洋ゴルフクリニック】

コロナウィルスの恐怖

コロナに感染した人が完治後に周囲との距離感を感じてしまうわけです。
例えば “会社で微妙な距離感を感じる” ・・・それは、コロナに感染した人に対する蔑視の感情もあるでしょうね。
まぁ、それくらい怖いと思っているんですよ。自分がウツされて死ぬかもしれないと思うと、コロナウイルスに感染したり感染させたりした人を “蔑視” することでしか、その恐怖心を誤魔化せない。それは時に「あなたの迂闊さで迷惑する人が何人も居るんですよ」という論理と化して、その論理が公明正大な “正義” だと振りかざすわけなんです。
しかし、その本質は、責任の所在を他の誰かに擦り付けたいだけの、たんなる “批難” でしかありません。そのことに気が付けない・・・まぁ、精神的に軽いパニック状態に陥っているわけです。そうは言っても、それ自体が仕方のないことなんですね。だって怖くて堪らないんですから。。。
アメリカの賢い方々が「中国が食い止めなかった責任は重大だ!」などと騒ぎだしたようですが、まぁ人間なんて結局 “そんなもん” なんですよ。

ともあれ、その “距離感” を分析したりする必要もないかと存じます。自分自身が人を色眼鏡で見るようになってはいけません。
どのみち “距離感” は必ず存在してしまいます。先程も申し上げた通り、それは “恐怖心” から生じる蔑視であり差別である「責任の所在を誰かに擦り付けたい批判的感情」です。言わば人間の精神活動には絶対的に存在してしまう抗い難い心の動きですから、何度も申しますが仕方ないことなんですね。そんななかにあって問題視すべきことは、その “恐怖心” = “仕方ないこと” を正当化するためだけに、わけの分からない正義感を振りかざして無暗に他者を攻撃しようとする “弱い個体(人間)” のロジックではないでしょうか。

憎むべきは『己を正当化するために人を陥れようとする人の脆弱さ』です。
ただ、それは “はからずも発動されている” 場合があるでしょう。悲しいことです。小生は斯様に考えますが如何でしょう。

コロナは病気ですから、感染に関する諸事に、その責任の所在を誰かに求めようとする行動や思考には、前向きな結果を期待することは出来ません。確かに反省は必要かもしれませんが、結論として誰かの責任にしようとしても、そこには遺恨しか残るものがありません。それは未来のない遺恨です。
所詮『病気』は、地球が人間に課す試練のようなものです。その試練(病気)は時として、人間を地球上から淘汰しようかの如く襲いかかります。それは定期的に起こっているとも言えるでしょう。歴史を紐解いてみれば、過去に於いて人間を壊滅的に痛め付けた感染症は枚挙に暇も御座いません。
コロナ感染症は誰もが考える通り今世紀最悪の感染症です。しかし、今世紀は未だ残っておりますから “今のところ今世紀最悪の感染症” だとしか位置づけられないはずです。これからも、こういった新たな感染症は必ず起こることでしょう。
だとすれば、人間が感染症に対して行わなければならないことは、誰かに責任を擦り付けようとすることではなく、正義を振りかざして誰かを批難したり色眼鏡で見たり陰口を叩くことでもありません。また、正義の味方が助けてくれるまで嵐が過ぎるのを待つことでもなければ、ましてや、ただただ怯えて逃げ回ることでもないと小生は考えております。

 

 

【Gスタジオ&合田洋ゴルフクリニック】

回り道

東京に居を移してから五年が経った。相変わらず、ぶら下がった衣類に埋もれるような狭い部屋で、TVも無い生活を送っている。
仕事の無い日は主に読書をする。時にネットで様々な映像をみたりニュースをみたりもするが、そんな生活の場にあって有意義だと感じる時間は隅田川の護岸に出るときである。隅田川の四季に接するようになってから、五年の月日が流れたということだ。
ときおり人に、なぜTVをさえ置かない生活を続けているのかと問われることがあるが、その答えは決まって「修行中」といった類いのことを笑いながら伝えるに留めている。正直、己自身でも、なぜ出来るだけ快適な生活環境を作らないのか、それを不思議に感じている。正直、自分でも分からないのだ。快適とは程遠い生活環境に身を置くことを潔しとしている。現在にあっても、そう思っていることだけは確かだ。

ツアーを引退して十三年を数えるが、引退後十年間に亘り積極的に歩くことをさえしなかった筋肉は著しく衰えて、一頃には100㎝のウエストに95キロの体重を抱える始末。ラウンドに行っても疲れが酷く、その翌日には熱が出るほど疲労した。普段の生活にあって膝がピシピシと音をたてれば、ときに不整脈にも苛まれる。仕事に於ける精神的苦痛とも相俟って、心身ともにボロボロの状態。50歳前後の身体に様々な疾患を隠していることは明白だった。ひょっとしたら、とある朝、何の脈絡もなく死んでいる自分が居る可能性を充分に想像できたのである。

そんな者が試合に復帰するなど夢のまた夢。
ゴルフから離れてデスクワークを主とした職に就いた十年という期間は、重ねた年齢とともに、ゴルフというスポーツを過酷に感じさせる時間として余りあるものだったのである。
若年の頃より追い求め続けた道。それとは違った生々しい人間関係を過ごすとも言える “その時間” の中で学んだことは、周囲の偉そうな人間から聞いていた其とは大きく異なり、多くはなかった。また貴くもなかった。
突き詰めれば、人間という生き物は利害で動く、という至極基本的で簡素なものでしかなかったのだ。

齢50を越えた自分が “その時間” の中で至った心境を述べれば・・・【動物は凄いよ。気持ちでしか動かない。まぁ、食べるために金は必要だが、金なんざ旨いものを食えるぶんだけ有れば充分】・・・である。(笑)

呆れたことに、巡り巡って『心でしか動かない人間でありたい』という自分に戻ってしまった。

現在55歳。敬愛する友が亡くなってから五年。
修行の中に過ごす。
人間、死ぬまで修行なんだと常々思う。

 

 

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錯覚との闘い

ゴルフコースをラウンドしていて、ときに陥る【罠】がある。
たとえば、ユッタリと右にドッグレッグしている広いフェアウェイの前方やや左サイドに並ぶバンカー群を見て「なるほど、このホールは前方左サイドのバンカーを避けて右方向へとクロス気味に打っていくホールだな」という攻略を立ててみれば、そのティーショットが完璧であればあるほど、どうにもならない2ndショット地点に見舞われてしまったり。また、ティーショットで良いポジションを確保した2ndショットを打つときに、グリーンに立っているピンが、その距離のわりにどうにも遠く感じてしまったがため、好いショットを打てば打つほどピンを大きくオーバーしてしまうことなどである。
これは、そのホールを設計者が設計する際に施した絶妙なランドスケープから生じる『錯覚』という名の罠だ。
このように優れたゴルフコースでは、ところどころに巧妙な罠が仕掛けてあって、その罠を情報として知っておくことはもとより、練習で培った技量や自信などを以て乗り越えていくことも重要な『ホール攻略』となる。つまり良いスコアを出すためには、様々な情報を処理していく力量が問われるわけだ。これこそゴルフが、歩くチェスと呼ばれる所以でもあるだろう。
ところが『ゴルフの錯覚』は、コースをラウンドしているときばかりに現れるものではなく、己のスウィングにも現れるから厄介なのである。

『実際の動きと自分自身で感じている動き(動きの感覚)は、必ずしも一致しない』

スウィングを敢行するにあたり、こう動いているつもりが全く逆の動きとして実際のスウィングに現れてしまう。一つの動きに対して二つの観点が生じるとも言える極めて不可解な現象が、この『実際の動きと自分で感じている動きは必ずしも一致しない』というゴルフ特有の現象であり、古来より、多くのゴルファーを脱出不可能な迷宮へと誘った恐るべき錯覚なのである。
スウィングレッスンでは、この『実際の動きと感じる動きは必ずしも一致しない』という錯覚を埋める作業、すなわち『実際』と『感覚』のギャップを埋める作業が非常に重要となる。これは、クライアント(受講者)との綿密なディスカッションなくしては決して解決を見るものではない。なぜなら、彼らの意識のなかに根強く存在している『感覚』が、正しい動きを行わせてくれないという『実際』を引き起こしているからだ。

山で遭難したときに、あなたは沢を探すなり、下へ下へと下降するだろう。下には町があるし、あなたには常識的に極めて正しい判断だとの自負もある。しかし途中で考えるはずだ。さて、自分は降っているのだろうか?登っているのだろうか?と。ところが山育ちの人間は、先ず高いところに上がろうとする。それは、見晴らしの良い高いところに上がって、自分が何処に居るのかの情報を得ようとするのだ。
ゴルフが上手な人も同じことをする。たとえ遠回りをしようとも、まずは客観的情報を把握しようとする。我々レッスンプロ(コーチ)は羅針盤だ。

結局、錯覚から生じる【罠】の正体は、じつは、あなた自身が、自分自身の枠(常識)から踏み出せないだけのこと。
心の格闘技とも呼ばれるゴルフは、自分との闘いであることは然り、同時に錯覚との闘いでもあるということを忘れてはならない。

 

 

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100切りゴルフ

先日、久しぶりに懐かしい友人と会った。彼との出会いは今から20年以上前のこと。市井の練習場で練習をしていた私に、「友達に勧められてゴルフを始めたんですが一向に上手くなれない」と彼から声をかけて来たのである。なんでも「いくら練習しても110stが切れなくて仲間に毎回負けてしまう」らしく、ぜんぜん自信が付かないとのこと。今の目標は? と聞くと、「100stを切りたい。一度でも100が切れれば自信が付いてゴルフが楽しくなると思う」とのことだった。話してみると中々礼儀ただしい人だったし、彼の人間性にも興味を持った私は、レッスン料金はレッスンの後に居酒屋で御馳走してくれればイイと軽く請け負ったのである。もちろんツアーがシーズンオフだったこともあった。
先ずは週1ペースで練習場でのレッスンを5回ほど行って、その後、マンツーマンでのラウンドをした。練習場で、ある程度スウィングの下地を作り、ラウンドでは、彼が打つ毎にボールを何処に置くのか、ターゲットを何処に持つのか、どういう気持ちでスウィングをするのか等々の指示を与えた。そのラウンド中、彼は、私の指示を真摯に全うしてくれたことは言うまでもない。
もちろんミスはあったしOBなども打ってしまったのだが、その日のスコアはというと、52st&46st=98st。
私自身ハッキリと憶えているのは、泣き出しそうな勢いで喜んでいた彼が余りにも印象的だったからだ。なんと、わずか一か月間での100切り達成。ベストスコアの大幅更新である。
ところが久しぶりに会った現在の彼が曰く「合田プロが一緒に回ってくれたときの一回だけ100を切れたんですが、結局、その後は一度も100を切ることが出来ませんでした」とのこと。そして「僕にはゴルフの才能が無いみたいです」と申し訳なさそうに頭を下げた。

賢明なる読者諸氏には既に御分かりのことだろうと思うが、じつは彼は、己の力で100stを切ったわけではなかったのだ。あの時の100切り達成は、彼の持っている技量を使って私(合田)がラウンドしたに過ぎなかったと言えるだろう。ゴルフコースでは、練習場のマットからボールを打つことやバーチャルのシミュレーションゴルフと違い、前方に待ち構える池やOBなどホール・バイ・ホールのロケーションに心が揺れ動かされれば、コース上の様々な状態にあるボールを打つしかない。
すなわち、ゴルフコースをラウンドするということは、あらゆる場面に於ける『対応能力』が求められるということでもある。無論、たとえ100切りであろうとも、相応の対応能力は不可欠な要素であり、その能力を僅かなラウンド数や僅かな期間で身に付けることは不可能だとさえ言えるだろう。

経験を積んで、その対応能力を研く必要がある。たとえ100切りであろうと経験と研究が必要なのがゴルフというスポーツだ。

確かに100stを切ることを目標にトライしているときは楽しく感じるし、多くのハイハンディのアマチュアゴルファーが「100切りを目指して頑張ってるときが一番ゴルフが楽しかった」と回想したりもする。よく聞く言葉だが、さて、そんな仰り方をされている貴殿の現在は『100stを打たないゴルフ』になっているだろうか?
『100を切るゴルフ』と『100を打たないゴルフ』には、それこそ雲泥の差があって、本当の100切りとは、じつは『100を打たないゴルフ』だと言える。
100を切ったことのある人は、今でも100を打つ人。そして100を打たない人というのは、少々ゴルフの調子が悪くとも、そう簡単には100を打たない人である。それはつまり『90stを切れる人』のことを言う。この、通称『ボギープレー』を打破できるようになると、ゴルフは破格に面白くなる。
100切りを目指している時期なんてメじゃない面白さだ。また、90を切れるようになると100という数字がハッキリと遠くなるどころか、不思議なことに、己の上達のスピードに明らかな加速感が加わることを知るだろう。そして・・・なんとなくかもしれないが、ゴルフの何たるかが分かって来たような気さえする。

焦らず慌てずジックリと、当初は100st切りを目指し、ゆくゆく90st切りを目指し、100stを打たないゴルファーになって欲しい。
そういった上達の過程を踏むなかで、気遣いの出来る、周囲の方々に愛され尊敬されるゴルファーを目指して欲しいのである。

 

 

【Gスタジオ&合田洋ゴルフクリニック】

最近の・・・

「最近の若い者は」というフレーズは、昔から度々使われていた。
賢明なる翁が、若い世代や壮年期にある世代の人間を捉えて、「最近の若い者は」と、それは恰も「最近の世相を憂ええた溜め息」のように映ったに違いない。つまり「最近の若い者は」というフレーズは、じつを言えば「最近の世の中は」という憂いであり、賢者たる翁の溜め息とも言えたのだ。しかも、それが、4000年以上も前に建造されたピラミッドの片隅にも、クサビ形文字を用いて「最近の若い者は」と書かれてあることを知れば、いつの時代も、どの国でも、時代の変遷のなかに賢者の溜め息は連綿と続いて来たと推測することが出来る。人は生まれ、そして死ぬ。生まれ出で、懸命に生きるなか、長年の経験から培われた賢明なる翁の目を通して見れば、いついかなる時代も憂いて然るべき「人の拙さ」が確かに在るのだろう。

しかし日本の昨今、この「最近の若い者は」というフレーズが、どうやら少し変わって来たような気がする。「ブレーキとアクセルを踏み間違えた!?」そういった報道などを目にする。やれ高速道路を逆走する、やれ歩道を歩く登校児童を車で薙ぎ倒す、やれ車で店舗に突っ込む、それはもう、かつて賢明なる翁が憂えた「人の拙さ」では済まされない恐ろしい社会現象ともなっている。その無軌道さは後を絶たない。つい先だってスーパーマーケットで見かけた御老体が「今から買うんだから何が悪いんだ!」と店員さんに向かって憤っているのだが、いくら「今から買う」と主張しようとも、レジで精算する前の食品を食べてはならないのは常識のはず。しかし、その店員さんの言葉を御老体は聞く気もなければ理解しようとする気もない。
そう、現代日本では「最近の老人は」なのである。

若者よ。「そんなのボケ老人だから起こるんだよ」なんて言葉で事を済ませてはならない。現在の日本は、かつてない高齢化社会を迎えているのだから、いずれ貴殿も渦中の人となる。そう言う私も当年54歳という年齢であるからして、そう遠くもない未来に渦中の人となる。

四季折々を身体で感じ、書物を通して教養を深めよう。新しい何かを勉強してみよう。そして、樹木の声に耳を傾けながら若者達の未来を考え、潮風を受けつつ己の過去を省みよう。経験があるからこそ、故きを温ねて新しきを知ることが出来る世代でもある。
私を含め、これからのシニア世代は「聞かせよう」とするよりも『聞こう』とする心を持つべきではなかろうか。。。

 

 

【Gスタジオ&合田洋ゴルフクリニック】

『一打一会』

ゴルフは『道』である。常々そう思う。日々そう思い知らされる。

「スポーツは人間形成に役立つ」これはスポーツ全般に言えていること。しかしゴルフほど、人間の人格を鍛える(若しくは試される)スポーツは無いのではなかろうか。。。

逆説的な話になるかもしれないが、人間形成という点に於いてゴルフは、少なからず危険なスポーツでもあるからだ。
ようするに「踏み外すこと」が多々あるからである。『道』であるからこそ踏み外す者が出て来るとも言える。
上手くなれば、心に驕りが生じてしまうのは如何なるスポーツにも言えていることかもしれないが、ゴルフほど驕慢に陥りがちなスポーツは無い。これはゴルフの暗黒面だと言えよう。

ゴルフが上手いだけで、なんでも出来ると勘違いするのだ。
彼らの言動は鼻につくこと然り、プロゴルファーのなかには大学を卒業してすぐ、社会人としての経験を積まずして一年間に何千万円と稼ぐようになることで人格的に明らかに壊れた人間となってしまう。アマチュアゴルファーのなかには、その驕慢さがゆえに、ハイハンデの方々を「一般アマチュア」などと蔑むような言い方をする人間となってしまう。上記の者達は、ゴルフの道を踏み外した人間だ。彼らは総じて、対人間に対する場面に於いて、敬意はおろか敬語さえ失する場合が殆どである。

『道』あるところに『師』あり。
『師』あるところに『守破離』あり。
『守破離』すなわち『学び』なり。
『学び』あるところに『謙虚の心』あり。
『謙虚の心』あるところに『敬意』あり。
ゆえに『道』を歩む者、対人にして『敬意』をこそ尊ぶべし。

『敬意』とは、人を尊重する心。一期一会という言葉があるが、ゴルフの場合は一打一会も大切な心。
一期一会と一打一会の心を以って、プレーが出来る感謝のなかに己を高めたい。プロ、アマを問わず、ゴルファーたる者かくあるべし。

 

 

【Gスタジオ&合田洋ゴルフクリニック】

久々の一献

週刊ゴルフダイジェストで連載中の『江連忠・新モダンゴルフ』というレッスンコミックを御存じのかたは多いと思う。
江連プロが先ず一言を発し、その意味を分かり易く漫画を通して読者に伝えるというレッスン連載である。
江連プロの他にも彼のレッスンスクールのインストラクターを始めとした様々なキャラクターが登場するが、その中で異彩を放つ「山中さん」と呼ばれる登場人物がいる。この山中さんは、ともすれば硬くなりがちなレッスン物の連載に、絶妙とも言える笑いのエッセンスを加える非常に味わい深いキャラクターだ。既に御気づきの方もいると思うが、作中の「山中さん」は、このレッスンコミックの原作者=山中賢介さん御本人である。
じつは、この山中賢介という名前はペンネーム。したがって本名は別にあるが、最近の私は、この山中賢介さん御本人と会うたびに、ついぞ「山中さん!」と呼んでしまう有り様である。それほど、作中の山中さんは印象的なキャラクターとも言える。
ずっこけ加減が尋常ではない作中の山中さんは、一般的には有り得ない人物像である。そう、だからこそ笑えるのだ。
この山中さん=山中賢介さんと私は30年以上前からの友人である。
無論、これまで幾度となく一献を交わし交流を深めて来た御人であるが、数年前から忙しくなり、場面場面で会ったりはするのだが中々一献を交わすとまではいかなくなっていた。
歳を重ねることに因って、自分自身の身体でありながら、身動きがママならなくなることは多々ある。

そんななか先般、その山中賢介さんと仕事が一緒になり、仕事が終了した後、新橋の居酒屋で久しぶりの一献を傾ける機会を得た。
近況を手繰る話のなかにも懐かしい気持ちが去来する。山中賢介さんは相変わらずだ。作中の山中さんを地で行く御人柄である。ずっこけかたも昔と何ら変わらない。磊落に笑い続けながら杯を干していく山中賢介さんとの晩は深まっていった。
旧知との一献に互いの近況を知り、また昔話に花を咲かせられるのは人間の特権だと感じた次第もあった。
楽しい晩でした🎵 ありがとう山中さん。

山中さんは現在長野県に住み、農業を傍らに執筆活動を行っている。

 

 

【Gスタジオ&合田洋ゴルフクリニック】

「競技用」という規制を。

ゴルフの長い歴史のなかで、様々なゴルフクラブの規制(用具規制)が、変更されたり追加されたりした。
それはクラブ開発が進むなかで「ボールの制動」を司るゴルフクラブが、プレーヤーの技量向上に必ずしも適さない用具として進化を遂げてしまったと判断された場合に起こった、というのが私見である。
クラブを使ってボールを打ち放ち、また転がして、カップと呼ぶ地面に穿たれた穴(ゴール)にボールを収めるという作業をおこなうゴルフは、まずはボールという用具ありき、そして「14本」という使用本数制限のあるゴルフクラブという打球用具の一本一本に、それぞれの特性を持たせて、その時点に於けるボールが置かれた場面場面に対峙していくスポーツである。
ゆえに、それぞれのクラブの飛距離、どれだけのスピンをボールにかけるか、その飛球をコントロールできるか等、プレーヤー個人のスキルや技術によって為される「ボールの制動」に、用具そのものが、その個人のスキルの範疇を凌駕してしまえば、それは明らかにゴルフがスポーツとしての競技性を失ってしまい、興味深いスポーツでは無くなってしまうとも言える。
つまり、飛ばすための肉体のスキルアップや、飛球をコントロールするための練習が意味を為さなくなってしまうのである。

現在ゴルフが抱えている問題の一つに、用具の進化によって、飛距離が大幅に出るようになったということがある。これは、今後の競技ゴルフ(プロゴルフツアーのみならず倶楽部に於ける月例競技なども含む)に、徐々に、しかし確実に、大きな影を落とす要因となり得るだろう。その理由の最たるものは、用具の進化によって飛距離が大幅に伸びたことによって、相対的にゴルフ場が短くなり過ぎてしまうことで起こる、『ホールの短尺化現象』に他ならない。
今から数年前、ウッドクラブの反発規制や長さ制限が起こり(飛距離増大の制御)また、フェース面の溝規制などが起こった。しかし、ここで私の考えを述べさせて頂けば、いま最も規制を要する点は『飛距離追及型の用具』に更なる一石を投じること。それはボールに対する規制も然り、クラブに対する規制も然りである。

そこで提案がある。
例えば、ゴルフクラブの重さ。少なくとも競技ゴルフに於いては(男子60歳以下の競技ゴルフと定義しても良いだろう)クラブの総重量(一本のクラブの重さ)を「380g以上かつ580g以下」に規制する。併せて、長さに対して「43インチ以下」といった規制を加えるのである。長さに関しては、「60度測定法で測定したとき」など測定方法にも規制を加えたい。
また、これは予測だが、現在のボールに規制が加わらないと仮定すれば、上記「重量の制限」と「長さの制限」を新たな規制として施せば「使用本数制限」にも、現在の14本から12本あるいは10本などに見直すべき点が生まれるだろうと考える。

そもそも、ウッド系クラブのクラブヘッドを「木製に限る」と断ずれば、全ての問題点は解消されるような気もする。。。だいたい名称が「ウッド」なんだから、木でしょ。
職人技とも言える木工製品を、鋼鉄を使った工業製品にしたのは如何なものだろうか。

 

 

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