脳の誤作動

祈っていた。
自分の為に何かを為すために祈っていた。

いつも祈るのは人の為だった。それは、何かの為に頑張っていた自分だった。
しかし今、初めて自分の為に頑張っているのだと強く感じている。自分の為に頑張ることは、巡り巡れば人の為になることなのだ。
誰かの為に頑張る…それは結局『逃げ』なのだ。
つまり逃げ道を作りながら生きていた過去だった。

根幹は、そこだ。
逃げ道を断てば、進むしかないのである。

専門家には「いつも心地好い」なんて有り得ない。
己に活路を見出ださなければ、進退は極まる。つまりは負け続けるのだ。
誰かに勝つのではない。自分に勝たなければならないのだ。誰かや何かの為に頑張っている以上、本当の意味での自分と対峙することは出来ない。負け続ける自分と決裂するのは、新たな自分を、自分自身が断固として決定することだ。

自分を表現しなければならない現場で、何を考えなければならないのか…それは今、自分が自分の為に、自分の最大限を発揮する為に『自己に没頭できること』に尽きるだろう。
今しなければならないこと以外の全てを、己の脳から出来うる限り排除しなけれはならないと言える。
これを『集中』という。
そのとき耳に聞こえてくるのは、風がそよぐ音や鳥の声、またクリークの流れでしかない。ギャラリーのざわめきや、何かの為に頑張らなければならないなどの雑音は殆ど排除される。
まさに祈り。それも自分の為だけに祈る祈り。

人間は、喧騒の中に静けさを求め、静寂の中に賑やかさを求めるが、そういった無い物ねだりだったり、寂しさを埋めたい気持ちの揺らぎが、反射的に、表面上に現れる自己の望みを打ち砕く。武の道は遠い過去から、そういった『迷い』に如何に対処するかが究極の闘いでもあった。
賢明で自分本位では無い武者こそが苦悩するところだとも言えて、そもそもが野武士まがいに欲望に忠実に生きている者には無縁な悩みだとも言えた。自分が活きる為には人を奈落に落としても意に介さない人には無縁の感情なのだ。
だが、そういう自分本位の人間は、逃げ道を用意しながら進むことはない。それを短絡的に見れば、彼らの強みにも映っただろう。

では、そういう無頼漢ではない貴殿は、どうすればよいのであろう。

それは祈りによる解脱。

ゴルフに於いて、祈りと同義になるもの、それはルーティーンだ。
ルーティーンを使い熟すことが出来れば、様々な誤作動から回避される。
無論それは、貴殿自身が確固たる技能を持ち合わせているとすれば、だ。

練磨と集中。

プレーに於ける『集中』を司る(コントロール)する技術は、ルーティーンを使い熟す力量だと言える。

『抜かれて恥じることなかれ。我が歩む道、我のみぞ知る』

お坊さんは、一心不乱に経を唱えたり、座禅を組んだりすることで『集中』を得て悟りに至るわけだ。
お相撲さんが、立ち合いに行う一連の所作も然り。テニスプレーヤーが、サーブを打つ前に行っている動作に『集中』を感じない人が居れば会ってみたい。

そこが例え崖っぷちであっても、自分の行うべき動きを行いたいとき、そこに至るにあたる『祈り』にも似た『ルーティーン』が、古今東西あらゆる事象に対処をもたらした。

ルーティーンを磨き抜いて【解脱】を得よ。

【Gスタジオ&合田洋ゴルフクリニック】

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