コロナウィルスの恐怖

コロナに感染した人が完治後に周囲との距離感を感じてしまうわけです。
例えば “会社で微妙な距離感を感じる” ・・・それは、コロナに感染した人に対する蔑視の感情もあるでしょうね。
まぁ、それくらい怖いと思っているんですよ。自分がウツされて死ぬかもしれないと思うと、コロナウイルスに感染したり感染させたりした人を “蔑視” することでしか、その恐怖心を誤魔化せない。それは時に「あなたの迂闊さで迷惑する人が何人も居るんですよ」という論理と化して、その論理が公明正大な “正義” だと振りかざすわけなんです。
しかし、その本質は、責任の所在を他の誰かに擦り付けたいだけの、たんなる “批難” でしかありません。そのことに気が付けない・・・まぁ、精神的に軽いパニック状態に陥っているわけです。そうは言っても、それ自体が仕方のないことなんですね。だって怖くて堪らないんですから。。。
アメリカの賢い方々が「中国が食い止めなかった責任は重大だ!」などと騒ぎだしたようですが、まぁ人間なんて結局 “そんなもん” なんですよ。

ともあれ、その “距離感” を分析したりする必要もないかと存じます。自分自身が人を色眼鏡で見るようになってはいけません。
どのみち “距離感” は必ず存在してしまいます。先程も申し上げた通り、それは “恐怖心” から生じる蔑視であり差別である「責任の所在を誰かに擦り付けたい批判的感情」です。言わば人間の精神活動には絶対的に存在してしまう抗い難い心の動きですから、何度も申しますが仕方ないことなんですね。そんななかにあって問題視すべきことは、その “恐怖心” = “仕方ないこと” を正当化するためだけに、わけの分からない正義感を振りかざして無暗に他者を攻撃しようとする “弱い個体(人間)” のロジックではないでしょうか。

憎むべきは『己を正当化するために人を陥れようとする人の脆弱さ』です。
ただ、それは “はからずも発動されている” 場合があるでしょう。悲しいことです。小生は斯様に考えますが如何でしょう。

コロナは病気ですから、感染に関する諸事に、その責任の所在を誰かに求めようとする行動や思考には、前向きな結果を期待することは出来ません。確かに反省は必要かもしれませんが、結論として誰かの責任にしようとしても、そこには遺恨しか残るものがありません。それは未来のない遺恨です。
所詮『病気』は、地球が人間に課す試練のようなものです。その試練(病気)は時として、人間を地球上から淘汰しようかの如く襲いかかります。それは定期的に起こっているとも言えるでしょう。歴史を紐解いてみれば、過去に於いて人間を壊滅的に痛め付けた感染症は枚挙に暇も御座いません。
コロナ感染症は誰もが考える通り今世紀最悪の感染症です。しかし、今世紀は未だ残っておりますから “今のところ今世紀最悪の感染症” だとしか位置づけられないはずです。これからも、こういった新たな感染症は必ず起こることでしょう。
だとすれば、人間が感染症に対して行わなければならないことは、誰かに責任を擦り付けようとすることではなく、正義を振りかざして誰かを批難したり色眼鏡で見たり陰口を叩くことでもありません。また、正義の味方が助けてくれるまで嵐が過ぎるのを待つことでもなければ、ましてや、ただただ怯えて逃げ回ることでもないと小生は考えております。

 

 

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