オリンピック競技としてのゴルフ

先般リオでのオリンピックが閉幕を遂げた。日本選手団の獲得したメダル数は41個。彼ら彼女らの、その素晴らしい成績に、それぞれの競技に於ける選手達が己の血を絞るが如き努力と青春を賭けた4年間が垣間見え、大きな感動に涙した視聴者も多かったはずだ。
まさに感動のリオだった。
さて、このリオで開催されたオリンピックで、112年ぶりにゴルフが競技種目として復活した。
私はゴルフに関わる者として喜びにたえなかった。。。

さてさてゴルフ、成績については皆さんが御存じのことなので、ここでは割愛させて頂くが、日本の男子&女子ともに頑張ってくれたとプロゴルファー・合田洋としては彼らの労をねぎらうばかりである。
ただ今回、オリンピック競技としてのゴルフの在り方には、些かならずとも疑問を感じるを禁じ得なかった。

なぜ、出場選手がプロゴルファーだけの競技だったのだろう?

言わせて貰えば、プロ部門とアマチュア部門の2種目で男子と女子の競技として復活させて貰いたかったくらいだ。
そして、ゆくゆくはアマチュア選手のみの参加競技として確立させて欲しいとも思っている。オリンピックは「プロのもの」ではない。

テニスを含む他の競技について私が述べる術はない。
しかし、ことゴルフに関して言えば、プロゴルフとアマチュアゴルフは根本的な部分が違っているからか?
ハスラー(Hustler)という言葉を御存じだろうか。
辞書を紐解いてみると「賭けビリヤードを行って生計を立てる人」とあるが、ゴルフに於けるツアープロを端的に表現すれば「賞金の懸けられたゴルフ競技で生計を立てる人」となるわけだから、ハスラーの生計の立て方と大差はない。結局プロゴルファーはハスラーと殆ど同類の競技者であり、アスリートと例えるには遠く及ばない存在だと言えるだろう。(※「ツアープロ」は和製語)
無論スポーツマンとしてのツアープロを否定しているわけではない。
ただ私個人としては、アマチュアゴルファー=賞金を奪い合うゴルフで生計を立てていない「運動選手としてのゴルファー」のプレーをこそ、オリンピックで観たかったということなのかもしれない。
オリンピックに懸ける気持ちが強い者にこそオリンピックという存在が有意義だとも言えるからだ。

はっきり言おう。ゴルフ競技に参加した日本の選手から、オリンピックに懸けるべき気持ちは何も伝わって来なかった。
それは、精神性の問題である。マイクに応える彼らの姿勢、コメントの内容にも幾度となくガッカリした。
オリンピックは、日本全国民の期待を一身に背負って臨む場なのである。糞のような言い訳も自分の中に取っとくべきであったろう。

 

 

【Gスタジオ&合田洋ゴルフクリニック】

杉原さんからの有り難い言葉

数年前のことになるのだが、かつて、杉原輝雄メモリアルという小さな試合があった。
御存じだと思うが、杉原輝雄というのは、かつてプロゴルフ界で「関西のドン」とも言われた名プレーヤーだ。永久シード権を獲得した数少ないプレーヤーの一人でもある。生れ年は昭和12年。私の父親と同世代の人である。

若い頃から試合に出ていた私は、杉原さんとも何度も同組となって試合を闘った。試合中は殆ど喋らない杉原さんだったが、時たま笑いもせずに冗談を飛ばしてくれて、暑い夏場の試合の最中にも涼やかな風を吹かせてくれたものだ。
そんな塩梅に、意外と私は杉原さんと会話の出来る若手だったが、他の私と同年代の若手プロに聞けば、おっかなくて話が出来る人なんかじゃない! というのが大方の見方でもあった。
杉原さんは、とにかく厳しい人だったのだ。

その杉原さんが癌を患って亡くなられたことは周知だろうと思う。
亡くなられたとされる前年、病をおして杉原さんは、その杉原輝雄メモリアルカップに出場され、体調不良から途中棄権されたものの、棄権後もスタートエリアでマイクを持ち、出場する選手達の選手紹介を買って出て、軽妙な笑いを交えたトークで、多くのギャラリーにファンサービスをしていた。
その時の杉原さんは、恐らく立っているのも辛かったと思われる。
杉原さんのマイクに和やかに笑うギャラリーが囲む1番ティーへと向かった私がティーグランドに上がると、マイク片手の杉原さんと真っ先に眼が合った。私は「ご苦労さまです」と帽子を取り深く辞儀をした。すると杉原さんは、「おぉ!合田くんか!」と先ず一声。そしてこう言ったのだ。

「この合田くんって子は、僕の戦友の一人なんですよ」

その言葉を聞いた私の身体は強い感動に包まれた。全身が震えるなか膝が揺れた。偉大すぎる大先輩プロが、私ごとき矮小な存在に掛けてくれる台詞じゃないことだけは確かなのだ。『光栄』という言葉が私の脳裏に木霊した。最も尊敬するプレーヤーの一人でもある杉原さんから、身に余る賛辞を頂戴した以外なに者でもないと感じた。そして同時に、プロとして私は、いつも一所懸命にプレーしなければならないと強く感じたのである。

今でも、杉原さんが私に掛けてくれた ‟僕の戦友” という言葉は私の大切な宝物だ。
私にとって杉原輝雄は未だ亡くなってなどいない。

 

 

【Gスタジオ&合田洋ゴルフクリニック】

最近うれしかったこと。

北海道の道南オープンという試合に出場した。
現在ほとんど試合に出ることもなく、レッスンでのラウンドは熟しているがプライベートのラウンドは全くといってほど無い私だが、有り難いことに、そんな私に対しても苫小牧民報という道南オープンのスポンサーは、毎年のようにエントリーフォームを送ってくれる。
本当に有り難いことだ。
東京は茅場町にゴルフレッスンスタジオを立ち上げるという事業に着手して、そのスタジオに常駐するようになってからは、手元に届くエントリーフォームに、苦悶のなか欠場の返事を送り続けたことで、本当に暫く試合(自分のゴルフ)というものから遠ざかっていた。
道南オープンに出場するのも2年ぶりのことだ。

練習ラウンドを御願いする相手も思い浮かばなかったので、取り敢えず練習日に一人で試合会場に赴いた。よく晴れた朝だった。
練習グリーンに立つと、遠くから駆け寄ってくる二人が居る。
誰だ? 元来が近眼の私は、おでこに手を翳して眼をこらす。彼らは手を振りながら駆け寄って来る。そして二人は、私の傍らに到達するや否や満面の笑顔で私の手を痛いほど握りしめ「お久しぶりです!」と千切れんばかりに振ってくれた。その二人は、宮瀬博文(ヒロ)と田中秀道(ヒデミチ)だった。

私は、、、涙が出るほど嬉しかった。。。

まだ40代の彼らだが、現役を退く時期を迎え、シニアデビューに向けて虎視眈々と自分達のゴルフを練っているのだろう。少なくなった試合だが、地方の競技にも積極的に出場し、多くのゴルフファンを魅了している。みなさんも御存じの通り、ヒロもヒデミチも、かつてのビッグネームである。

彼らのような素晴らしいプレーヤーが、私ごときを ‟戦友” として捉えてくれていて、久しぶりに会った喜びを分かち合ってくれた。かつてヒロやヒデミチが苦しんでいる姿を、かつてヒロやヒデミチが掴んだ栄光を、しみじみと私も思い出す。。。

試合の結果は、ヒロが優勝。ヒデミチと私はギリギリで予選を通過し、ともに20位前後の成績だったと思われる。

 

 

【Gスタジオ&合田洋ゴルフクリニック】