龍ヶ崎カントリー倶楽部で日本オープンが開催されたのは1992年である。優勝者はジャンボ尾崎。その優勝スコアは11アンダー。じつは私も出場していて、四日間を19位の成績で終えた。
まぁ、まぁまぁの「稼ぎ」だったわけだ。
当時の日本オープン出場資格は、私の生息するエリアに於いては同年夏に開催される関東オープンで3位以内に入ることが条件だった。賞金シードを持たない私は、当然、関東オープンでの3位以内を目指したわけである。1992年の関東オープン開催コースは、茨城ゴルフ倶楽部・東コース。御存じの通りの難コースである。
結果は、四日間を終えて2位。壮絶な優勝争いの末、残念ながら優勝は逃したものの、念願の、龍ヶ崎カントリー倶楽部で開催される日本オープンに出場する切符を手に入れた。
加えて、まぁ2位だから、まぁまぁの「稼ぎ」だったわけだ。
さてさて龍ヶ崎カントリー倶楽部での日本オープンに出場するにあたり、私には一つの目標というか、夢があった。その夢さえ叶えば成績なんぞ、はっきり言ってどうでも良かったのである。
それは、、、もしも叶うことならばコースレコードを出して、龍ヶ崎カントリー倶楽部の歴史に名を刻むことだった。たった一日で構わないから神様の御加護を受けて、66st以下のスコアでラウンドさせてくれ!神様よろしく!ってなもんである。
そして初日、13番終了時点で4アンダーをマークしていた私は、残された5ホールを如何に2アンダー以下で上がるかに集中し切っていた。そんな火の玉の如く燃える私は、14番ホールの2ndショットをピンハイではあったものの1mの距離に付け、グリーンサイドに設置されたリーダーズボードを仰ぎ見て、驚愕した。呆気に取られた。そのボードのトップに表示された尾崎将司の名前の脇に8アンダーの数字を見たからである。夢は無残に打ち砕かれたのだ。
絶対に届かないスコア。日本オープンのセッティングで64stの数字は余りにも高い壁だ。高尾山しか登ったことが無い人間をエベレストのベースキャンプに連れて行き、頂上まで一人で登って来い!っていうくらい無茶なスコアである。
愕然の余り14番の1mのバーディトライを外し、ついでにパーパットまで外してしまった私は、「いつか絶対に!ジャンボさんに仕返しをしてやる!」と、完全に逆恨みの誓いを立てた。
その時に考えた仕返しは、浣腸である。。。
バンカーからのパットなんて、「浣腸!」みたいなものでもある。